東大和市の板碑 町史研究7 結語
V結 語
大和町に存在する板碑で、われわれが調査しえたものはさきに集成した六二枚であった。これらを時期的にみると、清
水・三光院蔵の徳治三年(一三○八)七月なる紀年銘をもつ板碑(1)がもっとも古く、また、芋窪慶性院蔵の永正二年
(一五〇五)六月二二日の紀年銘をもつもの(53)がもっとも新しい。つまり大和町の板碑は鎌倉時代末葉から室町時代に
いたる約二百年間にわたってつくられたものである。なかでも、応永・永享期(一三九四~一四四〇)を中心としてもっと
も盛行したらしい。
種子についてみると、これが刻されている板碑はすべて阿彌陀あるいは阿彌陀三尊の種子を刻している。また梵字の光
明真言や「南無阿彌陀佛」と念佛を刻したものもある。このようなことから、これらの板碑がいずれも阿彌陀信仰に関係
をもつものであることは明らかである。而して、これが大和町に存在する板碑のひとつの特色となっているといえる。
板碑の分布状態は中世集落と密接な関係をもっている。ふつう板碑を建てる場合、建碑者は自己の生活している集落あ
るいはその近辺にこれを建てたらしい。そうだとすれば、板碑の分布状態から中世集落のそれを導きだすこともできるわ
けで、この意味で、板碑は歴史地理研究にも有力な資料となりうるのである。板碑を建てたひとびとは、おそらく一般庶
民ー主として農民ーではなく、支配階級のひとびとであったであろう。わたくしたちは当然のこととして、板碑を建
てたひとびとについて関心をもたざるをえない。ところで、このような方面の研究はこれまでほとんどおこなわれていな
いようである。その大きな原因として、板碑を歴史的な史料として取りあつかうよりも、むしろそれを好古的趣味的に取
りあつかうものが多かったことをあげなければならない。また実際問題として、元弘三年なる紀年銘をもち、建碑の主旨
や建碑者の名が判明している東京都北多摩郡東村山町・徳蔵寺蔵の板碑のような例はきわめて少く、大部分のものはそれ
らが不明であることも、この方面の研究に障害となっているといえよう。しかしながら、板碑の分布状態やそれに刻まれ
た紀年銘や銘文ー法名などーを手がかりとして、ある程度までこれを推察できる。大和町所在の板碑についても同様
であって、以下、少しくこの点を考えることにしよう。
鎌倉時代末葉から南北朝の動乱期、さらに室町時代にかけて、この狭山丘陵一帯の地域は武蔵七党の流れをくむ村山氏
一族ー村山党ーの支配下にあった。村山氏は桓武平氏を称し、平忠常の孫、野与基永の弟にあたる村山貫主頼任を祖
とするとつたえられている。この村山氏に、大井、宮寺、金子、山口、須黒、横山、仙波、荒波田、難波田、久米、広屋
などの諸氏を加えた連合体が村山党である。村山氏一族の主要地盤は狭山丘陵の北方の入間川をはさむ平原を中心として
展がっていたと考えられる。それは、現在の地名である村山をはじめ山口、金子、久米などがいずれも村山氏一族の名に
由来したものであることをみても明らかである。この地域は古くから武蔵国の国府(現在の府中市)と北武蔵や上野方面と
を結ぶ街道すじにあたっていた。このために戦場となることもしばしばであった。たとえば、元弘三年(一三三三)上野
で兵を挙げた新田義貞は、この街道を南下し武蔵に入り、入間川、小手指原、久米川、山口で鎌倉方の北条泰家の軍と戦
っている。この戦いで、義貞の軍には坂東八平氏と武蔵七党のすべてが参加したという。村山氏一族が加わっていたのは
いうまでもない。このように村山氏一族は、そのおかれた地理的環境から、この地でおこなわれる戦乱にはつねに加わる
ことを余儀なくされ、元弘の役ののちでも、南北朝の動乱にはしきりに活躍しているのである。
さて、大和町一帯の地域もこの村山氏一族の支配下にあったことは確実である。当時、大和町の北方、現在の所沢市山
口の地には村山氏の一族である山口氏がおったが、これと近接する地理的関係からいまの村山貯水池をはさみ、大和町も
この山口氏の支配下にあったと推察できよう。山口氏の居館は所沢市山口にある山口城趾をそれに擬してよいと考えられ
三七
揔
三八
る。また、この近くの所沢市岩崎にある祥雲山瑞岩寺はもと山口氏の菩提寺であったといわれ、いま、この寺には二つの
山口氏の位牌と称するものがつたえられている。その一つには、
本願信阿大禅門 貞治六丁未年九月十八日
とあり、他には、
故参州大守満叟実公大禅門 永徳三癸亥年六月十三日
とそれぞれ書かれている。これらは、はたして史実をつたえるものかどうか、はなはだ疑問の多いものである。だが、前者
にみえる貞治六年(一三六七)はこの地方において何か大きな歴史的な動きのあった年のように考えられる。それは清水・大
久保平治氏蔵になる二枚の板碑にもこの紀年があることが注意されるからである。すなわち、現在は奈良橋・内野五平氏
の手に帰しているが最近まで大久保氏のもとにあった「貞治六年丁未六月二日、逆修、明法禅門」とある板碑(19)と、
「貞治六年丁未十月日、逆修」とある板碑(10)である。貞治六年ごろといえば南北朝の動乱が各地でかさねられてい
たときにあたる。この動乱に山口氏が参加したろうことは容易に想像できる。
南北朝のころ、この地に居った山口高実の子、高清とその子高治は正平二十二年(貞治六・一三六七)、川越氏とともに
南朝方として宮方一揆をおこし川越城に立てこもったという。このとぎ関東管領足利基氏は病が重く出陣することができ
なかったので、執事の上杉憲顕は基氏の長子、氏満を擁して川越城を攻めたが、川越山口両氏の軍は戦い三ヵ月に及んで
も士気はなはだ旺盛で容易に落城せず、その年の四月二十六日、基氏は病に倒れたが足利勢は少しもさわがず、川越城を
攻め、ついにそれをおとしいれ、山口高清は一族とともに山口の瑞岩寺に入って自殺したという。さきに記した瑞岩寺の
位牌のうち、「本願信阿大禅門 貞治六丁未年九月十八日」とあるものはこの山口高清のものとつたえられている。また
この後、山口高清の父、高実と孫の高治はふたたび信越の宮方と相応して勤王の兵をおこし、足利氏満と戦ったが、利あ
らずともに戦死し、瑞岩寺に葬られたという。そして、この高治の位碑が「故参州大守満叟実公大禅門永徳三癸亥年六
月十三日」とあるものとされている(以上、渡辺世祐・八代国治『武蔵武土』大正二年、七一頁および『所沢市史』昭和三二年、二〇六~二〇七頁による)。
このような史実があったと考えて、
大久保氏蔵の二枚の板碑をみると、貞治六年の戦いに山口高清とともに参加した村山一族おそらく山口氏の某が出陣を前
に万一の事態を考慮し死後の極楽往生を念じつつ逆修供養をおこない上記の板碑を建てたということもあながち想像にだ
けおわらすことのできない真実性を帯びてくるように思われる。
このように考えてわれわれは大和町所在の板碑はそのほとんどが山口氏に関係するものと推察したいのである。しかし
ながら、山口氏、さらに村山氏一族の動勢をつたえる信頼のおける史料はなく、きわめて断片的な史料によってそれを類
推しているにすぎず、その実体が不明であることから、これ以上深く考察を加えることが困難である。
最後に、大和町に存する板碑がいずれも阿彌陀信仰に関係をもっていることについて簡単にふれておきたい。中世は宗
教にたいする意識がいちじるしく高まった時期であった。仏教についてみても、在来の旧仏教にたいしていくつかの新仏
教が生まれ、信仰するものも貴族などの上層階級から一般庶民へと広範にわたるようになり、また平安時代後半からしき
りに喧伝されてきた末法思想によって生じた現世利益を求めることにおもきをおく浄土信仰も各方面に伸長をみせてい
た。紀伊那智の熊野三山にたいする信仰ーいわゆる熊野詣ーが盛行したのもこのころであった。
ところで中世に、村山氏一族がこの熊野詣をした事実をつたえる興味ある史料が奥野高広氏によって明らかにされてい
る。これは板碑を建てた思想にも関連することであるので、奥野氏の論文によってそのあらましを記しておこう。(奥野高広『中世の狭山地方』武蔵野三十五の二、正和31年、40~41ページ)。奥野氏のしめされた史料は那智神社所蔵の潮崎稜威主文書のなかにあるつぎの文書である。
本銭返二売申候道者之事、
合踵貫文者、彼状いつの国の舟生寺二かへ申
匹ρ」
ママ
右彼旦那者、依用々有十ニケ年本銭返二売申処実正なり、但彼旦那者、武蔵之国在所八村山地下一族青明坊の持分一
円、此内へみまご幸福寺をそへ申候て売渡申所実正也、若何方より違乱妨候者、青明坊として道やり可申候、傍為後
日、本銭返二売申状如件、
干陀長享二稔載三月廿一日売主築地森定(花押)
買主伊豆守内方
おし
これは武蔵国村山の地の熊野三山の信仰者(旦那ー道者)を掌握していた御師青明坊なるものが、この地域についての
権利一切を御師の伊豆守内方(夫人)に十二ヶ年の本銭返(十二年たって売渡代金四貫文を返済すればこの売買契約は無効になる)で売渡した際の証文である。御師
は先達とも称せられ、熊野三山に所属する身分の低い神職または社僧で、参詣者と三山の仲介者として、祈疇をしたり、
あるいは参詣者に熊野での宿舎を提供したものをいい、彼らは全国的な布教にたずさわり、それぞれの地方で信者の獲得
につとめた。このように一人の御師の掌握した信者グループが旦那(道者)である。したがって、この旦那は御師の勢力範
囲であり、このような地盤が売買、譲渡されることもあった。そのような売買の実態をしめすのが上掲文書である。これ
によってみると村山地方の住民ーいうまでもなく村山氏一族およびその支配下にあるものであるーは、少くとも長享
のころ(一四八七~一四八八)、熊野詣をおこなっていたことがわかる。熊野信仰の性格は、浄土信仰とも関係し、思想的に
は現世利益を願うことに主眼をおくものであろう。とすれば板碑にしめされた浄土信仰とも一脈相通ずるものをみないわ
けにはいかない。前述したように大和町に存在する板碑が村山氏一族に関係をもつらしいことを考えると、この考察はさ
らに明確さを増してくる。結局、大和町の板碑は、この地方の在地領主層を構成していた村山氏一族、それもおそらく山
口氏が現世利益、極楽往生の願いをこめて建碑したものと考えられよう。